子どもは自分の力で発達し、学んでいく

そんな子どもの姿を理解して見守るのが、

モンテッソーリです

 「育児」とか、「子育て」ということばを使うとき、わたしたちは「何もできない子どもを正しく教え、導いて成長させる」というふうに思ってはいないでしょうか? 確かに生まれたばかりの赤ちゃんは、何もできないように見える頼りない存在です。食べさせ、着させ、寝かしつけ、朝から晩までおとながさまざまな世話をしなければ、生きてはいけません。

 でも考えてみてください。赤ちゃんはやがて、誰にもそのやり方を教えてもらわなくても「はいはい」を始め、物につかまって立ち、そして一人で歩き始めます。ことばも同じです。ことばの塾に通わなくても、ことさら必死に教えなくても、子どもは成長すると、おとなと会話ができるようになります。

 これらは決しておとなが与えたものではなく、子ども自身がもっている能力によるものです。モンテッソーリは、「子どもには自らを自分の力で育てていく力が最初から存在している」ということを発見しました。何もできないように見える赤ちゃんは、自分の力で発達を遂げ、新しい能力を開発し、それを発達させているのです。

 だから周りのおとなは、この前提をしっかりと理解したうえで、目の前の子どもをよく観察し、その発達に必要な手助けだけをするーそれがモンテッソーリの教育法です。

 子どもが一人で歩き始めるのと同じように、一人ひとりがそれぞれの発達の段階に果たさなければならない「生命の課題」をもって生まれてきます。 それは、一人でごはんを食べることや自分で服を着ること、読み書きをすることなど、発達の段階に応じて多岐にわたりますが、その一つ一つをクリアしていくことで自分を発達させ、これから生きていくために必要な、さまざまな能力を獲得していかなければなりません。

 つまり服を着せたり、顔を洗ってやったり、勉強を教えたりすることは、子どもを育てることではないのです。おとなは「子どものためを思って」とか、「子どもの将来のために」という理由で、自分の考えを子どもに押しつけ、教育し、子どもを支配したがります。でも、ほんとうに子どものためを思うのなら、子どもが自分の力で生きようとする、その「生命そのものに仕えなければならない」と、モンテッソーリは考えたのです。

英才教育ではありません

モンテッソーリの教育法は、

誰のため、そして何のため?

 小さな赤ちゃんを初めて胸に抱いた日、わたしたちは心の底からその幸せ を願い、この大切な生命をしっかり守り育てる「よい親になろう」と自分に 誓います。けれども子育てには思いもよらぬ、山あり谷あり。どうしてこん なことをするのか、なぜ言うことを聞かないのかとイライラし、子どもに振 りまわされてくたくたになる日がすぐにやって来ます。

 これだけ一生けん命やっているのに、「どうしてこんな子に育ってしまった のか」と嘆き、声を荒げて子どもを泣かせてしまった後で、「わたしはダメ な親だ…」と自己嫌悪。それは、「子どもを愛するよい親である自分」を 主人公に子育てをしているかぎり、誰にでも起こる珍しくはない日常です。

 でも、子どもの発達というものをきちんと理解していれば、そして目の前の子どもがどんな発達の段階にあるのかを正しくとらえることができていれ ば、子どもの果てしない要求や困った行動の一つ一つには、何かを発達させ るための理由があることがわかります。そしてその発達に対してタイミング よく、ささやかで適切な援助をしてあげることさえできれば、子育ては苦労の連続から楽しい毎日へと変わっていくはずです。

 時におとなをくたくたにさせてしまう子どものパワーは、本来子どもが自分自身を育てるためのエネルギー。それをおとなが抑えつけて、粉々にしてしまってはいけません。わたしたちの仕事は、子どもを縛り、抑えつけることではなく、子どもの発達を見守り、適切な時期に適切な手助けを行うことだけなのです。

 そういう視点をもつことができれば、子どもを見る目や子どもへの理解が変わり、いっも怒ってイライラしている自分が変わります。そして自分が変われば子どもとの関係が変わり、子どもも変わります。それは子どもが適切な時期に、必要な発達をしっかりと遂げることができるからです。

 就学前の子どもたちが、すらすらと読み書きをしたり、難しい計算をこなしていることがクローズアップされた時代があったせいで、モンテッソーリ は英才教育を目的としている、と理解している方がいるかもしれません。で も、その答えはもちろん「NO」です。

 モンテッソーリは子どもたちの幸せと、おとなたちが過剰な子育ての苦行から解き放たれることを願っているのです。

モンテッソーリが目指すものは、

強く、自由で、独立した子ども

他者と共存できる平和的な子どもです

  片時もじっとしていない子、元気を通り越して乱暴な子、反抗的な子、その反対に元気のない子、怖がりの子、神経質な子など、子どもにはさまざまな特性があり、わたしたちはいつも「幼稚園などに新しい環境になじめるだろうか」、「勉強についていけるだろうか」など、少なからず心配したり、悩んだりします。

 モンテッソーリでは、幼児のこのような困った状態は、子どもが自分で体を使い心を働かせて発達しようとしていた時期に、周りのおとながそれを妨げたり、取り上げたり、せかしたり、反対に放っておいたことが原因で、子どもの持つ精神的なエネルギーと肉体的なエネルギーがうまく統合されなかったためではないかと考えました。

 人格の基礎ともなる、6歳までの発達にこのような凸凹ができてしまったとしたら、その後に続く児童期、思春期、青年期の発達は、この上にさらに凸凹に積み上げられていくことになってしまいます。

 モンテッソーリは、こうした一つ一つの困った状態を直すのではなく、それらに共通の根っこの部分(=損なわれた発達)に効く方法を見つけました。その第1段階は、子どもが出会ったものに自由に取りかかること。第2段階は、やり始めたことに続けて取り組むこと。第3段階は、そのことに全力を傾けること。そして第4段階は、「できた」という気持ちで自分からやめること。その後に内面から喜びがあふれてくること、という一見シンプルなものでした。 

 しかもその道筋を体験させることは、決して難しいことではありません。子どもは意志や知性を働かせて手や体を使う機会に出会えば、自分の心と体の能力を総動員して集中します。そして満足するまで続け、くり返し、やがて達成感とともにそこから離れていくのです。

 そして問題のある子もない子も、同じ道筋を通ることで、独立心と協調性を併せもった、正直で優しい、正義感のある子ども、忍耐強く、従順でありながら自由な子どもへと、必ず変わっていくことがわかりました。

 「そこにはまだいないけれど、その子の中にはもう一人の新しい子どもがいるのです。そこにはまだいないけれど、必ず現れる子どもの高い資質を信じ続けねばなりません。」マリア・モンテッソーリは、そう語っていました。 

子どもが生まれながらにもっている

「自分を育てる」ためのエネルギー、

「自己教育力」ってなに?

  モンテッソーリは、「子どもには生まれながらに、自分自身を育て、教育する力が備わっている」と考え、それを前提に子どもたちを教育することを基本としています。

 子どもは自分のもっている力で自分を発達させる―人間の脳や体のさまざまな分野での研究が進んだ現代では、それほど奇異には感じられないことですが、なお、「子どもは無力、だからおとなが守り育てなければならない」という考え方は、今日まで連綿と続いているかもしれません。

 確かに、生まれた瞬間から自分で立ち上がったり歩いたりするほかの動物に比べて、人間の赤ちゃんは圧倒的に無力です。できることは、お母さんのおっばいを吸うこと、そしてそれを飲み込むことくらい。「生きること」そのものを、 おとなに依存している状態です。

 でも1年が経つころには、何か障害がないかぎり、どの子も物を食べたり、 立ったり、歩いたり、話をしたりするようになっていきます。これが自立です。 世界中の親たちは、赤ちゃんを自立させるために日々教育・指導しているわけではありません。赤ちゃんは自分がもつ強いェネルギーで、自分を「自立」 の方向へ向け発達させていくのです。

 子どもは誰にも教えられないのに、どうやって「できないこと」を「できること」に変えていくのでしょうか?

 たとえば歩き始めたばかりの赤ちゃんは、「歩く」という能力を獲得するまで、一日中、そして何日もの間、とことん「立ち上がって、歩いて、しりもちをつく」という動作をくり返すのです。

 誰かに「やりなさい」と言われているわけではありません。それは自分の中にある発達への強い欲求、あるいは「自然から与えられた課題」というふうにもとらえることができるでしょう。

 おとなには、ほんとうの意味でそれを助けることはできません。子どもは教えられることで、何かができるようになるわけではありません。自分から進んでくり返す「自発的な活動」によって、さまざまな能力を獲得していくのです。

 だからおとなの役割は、歩き方を教えることではありません。おとながするべきことは、子どもがもって生まれた「自己教育力」を十分に発揮できるような環境を作ってあげることだけ。転ばぬ先の杖をたくさん用意したり、「汚い」「早くしなさい」など、手出し口出しをして、自分で発達していこうとしている子どもの邪魔をしないことが、何よりもだいじなのです。 

敏感期

一つの発達を遂げるための、

強い興味や関心が芽生える時期

 「敏感期」ってなに? 敏感期というのは、もともとは生物学の用語です。

 ある種のチョウの幼虫は、生まれてからごく短い期間だけ光に敏感に反応すると言われています。生まれたての幼虫は、ひたすら光に向かって木を登り、枝の先端までたどり着きます。するとそこには、小さな幼虫の弱いあごでも食べられる、芽吹いたばかりの柔らかな新芽があるのです。

 しかし、何日かが過ぎるとこの光に対する感受性はなくなり、幼虫の感受性は別のものへと移っていきます。

 でも、幼虫はもう枝の先まで登らなくてもだいじょうぶ。その頃までに幼虫のあごは強く発達し、肉厚の葉も食べられるようになっているからです。

 モンテッソーリは子どもの発達過程においても、子どもを必要な発達へと導く、この敏感期があることを確信しました。

 人間にはさまざまな敏感期があり、そのほとんどは0〜6歳までに集中しています。敏感期の存在を知り、その現れをキャッチすることで、わたしたちはその発達に適した環境を用意してあげることができるのです。

「発達に適した環境」ってなに? 「言語の敏感期」は、とても早い時期から現れます。始まるのは、まだ赤ちゃんがお母さんのお腹の中にいる妊娠(胎生)4〜7か月めから。今では広く知られていることですが、赤ちゃんは誕生してから初めて人の声や音を聞くわけではなく、お腹の中にいる時代からお母さんや周りの人の声を聞いて、ことばを学び始めているのです。 言語の敏感期の中でも「話しことばの敏感期」の時期ならば、子どもはお母さんの話すことばに限らず、自分の周囲で使われているどんな言語でも習得することができると言われています。

 その敏感期に与えられるべき適切な「環境」というのは、赤ちゃんのいる「空間」のことだけを指すのではありません。赤ちゃんに話しかける「お母さん」や「お父さん」、周囲の人、そして赤ちゃんに聞かせる「ことば」や、ことばと結びついた「もの」、それを赤ちゃんに見せるという「行為」、こうしたすべてが赤ちやんにとっての「環境」というわけです。

 赤ちゃんはまず音やことばを聞き、意味のない音を出します。やがて意味のある音や泣き声を発するようになり、*喃語から単語へ、単語から文、文から文章へと爆発的にしゃべるようになっていきます。

 そこで一番大切なことは、それぞれの発達に適した、タイムリーな環境を用意するということ。話しかける、絵が描かれたカードを見せる、絵本を読み間かせるといった行為(環境)は、おとなの考えに基づくものではなく、いつも「目の前の子どもの発達が求めているもの」である必要があります。

  *喃語:赤ちゃんのまだことばにならない発声 

集中現象

敏感期に現れる、

子どもの自発的な活動のくり返し

「集中現象」ってなに? モンテッソーリで使われる「集中現象」ということばは、わたしたちがふだん「午前中は仕事に集中した」などというふうに使う「集中」とは、少しニュアンスが違っています。「集中現象」は、子どもが自発的な活動をくり返し行っている状態を指しています。

 ある子どもが興味をひかれ、自発的に関わり始めた活動が、その子の敏感期(発達段階)にぴったりだったとき、子どもは必ずその行動を何度もくり返し行います。

 時におとながあきれるほど何度も、何時間も、あるいは何日も続くことがあります。そしてある時、子どもは「できた!」という瞬間を迎え、満たされた気持ちとともに自分からそこを離れ、次のステップへと進んでいきます。

 この活動のくり返しのことを、モンテッソーリは「集中現象」と呼びました。

 自分の中に生まれた課題を、自分の力で克服しようとしてくり返されるこの活動は、どの年齢の子どもにも等しく見られるもので、モンテッソーリはこの集中現象を、すべての子どもの発達を握るカギとして位置づけました。

どの子にも現れる集中現象の効果 すべての子どもに敏感期があり、すべ ての子どもに集中現象が現れます。もしも集中現象があまり見られないとしたら、それはどこに問題があるのか考えてみましょう。

 ①子どもの敏感期(発達段階)に合った環境を整える

 ②その環境に子どもが交われるような与え方・提示をする

 ③子どもは自発的に関わり活動する

 ④集中現象……くり返し関わる

 ⑤「できた!」という瞬間を迎える

 子どもの活動の流れは、上のようにまとめることができます。

 敏感期にびったり合った環境(たとえば道具やおもちゃ)が用意され、その使い方や遊び方がわかれば、子どもは自分からそれに関わろうとします。そして「できた!」の瞬間まで、それは果てしなくくり返されるのです。

 もし子どもが自発的にその活動を選び取らなくても、そして集中現象を経験しないままでも、おとなが教え、練習させれば、子どもは何かを習得することはできるでしょう。しかし、教え込まれてできるようになったことと、自分で選び取って自分の力でできるようになったこととの間には大きな差があります。

 たくさんの集中現象を体験している子どもは、ただ単に発達を遂げるだけでなく、物事に集中しやすい体質のようなものを手に入れます。遊んでいたかと思うと、次の瞬間には、何かをしていても、その時しなければならないことがあれば、ぱっと気分を切り替えて取り組むことができます。

 その対象が勉強でもスポーツでも、また音楽やほかの趣味にしても、物事に集中して積極的に関わることができれば、当然成果は現れてきます。そうなれば、その先の課題に向け、子どもはもっとがんばることができるのです。 

モンテッソーリの三角形

子どもと環境

そしておとなが作る望ましいかたち

子どもは自分で環境から学びます

 モンテッソーリの基本は、子どもと環境、そしておとなが相互に必要な関わりをする、という三角形です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

             モンテッソーリの三角形

 

 なんだか当たり前のことのように聞こえるかもしれませんが、モンテッソーリ以前の幼児教育は、現在でさえも教育と名前のつくものは、たいてい「おとなが子どもに教え、わからせる」という、二者間の一方通行です。

 

 

 

 

 

              一方通行の図式

 

 こういうおとな(教師)中心の教育が行われてきた背景には、「子どもは何もできない無力な存在。だからおとなが教え込まなければ」という考え方があります。

 しかしモンテッソーリは、「子どもは自分を取り巻く環境からあらゆるものを吸収し、自分を発達させ、教育していく」ということを発見しました。おとなが子どもを指導するのではなく、子どもが自分自身を発達させることができるような「適切な環境を構成することこそが教育の土台」であり、また「わたしたちの学校では、環境そのものが子どもを教育する」とも語っています。

 

環境を用意するのがおとなの仕事  子どもはおとなの力や教えによって育つのではありません。子どもは環境との交流によって育ちます。

 だからおとなの仕事は、子どもに何かを教え込むのではなく、子どもの発達にふさわしい環境を用意することです。

 そして子どもの発達を、いかに子ども自身に任せることができるようになるか、また、いかに子どもに任せられるだけの適切な環境を用意することができるか―それが大きなポイントです。 

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